マチヤ・テラス通信~高槻の町家を照らす~

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カテゴリ:地震のこと( 26 )


2016年 03月 10日

昨日の記事への追記

罹災証明の判定(役所)と被災建築物応急危険度判定をもう少し合理化できないでしょうか。
これらは目的が異なるため、別々に調査をしています。

例えば、5年前の岩手県の場合、公費撤去にかかわる全半壊の証明は、
危険度判定士の報告書で浸水範囲がわかるので、
(1階天井まで浸水なら全壊、1階床高1m以上浸水で半壊の罹災証明が出ると聞いていた)
それをもってすみやかに全半壊の罹災証明を出せたのではないかと思うのです。
担当した危険度判定士にヒアリングしていただいても構いません。
役所の調査担当も負担が軽くなるはずです。

5年前、くる日もくる日も様々な手続きを求める長蛇の列が絶えませんでした。
被災した方たちの負担が少しでも減らせるように、
少しでもはやく生活再建に取り組めるように、工夫すべきことがあります。
この話、まずは建築士会のみなさんにも相談してみます。

考えてみれば、危険度判定も行政からの派遣要請で動くはずです。
ということは、罹災証明も危険度判定も行政の仕事なので、
行政内でうまく調整していただける可能性もありますよね。
そっちもあたろうと思います。

ちゃんとルール作りまでできなかったとしても、
普段から、こういうことを話し合っていれば、
いざという時、柔軟に対応できる可能性が出てくるはずです。
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by ti-ao | 2016-03-10 22:52 | 地震のこと | Trackback | Comments(0)
2016年 03月 09日

岩手での活動記録(2011年4月)

東北の震災からまる5年。
2年ぶりに岩手県建築士会釜石支部の方と電話で話しました。
お元気そうでした。

2011年3月11日の地震の後、4月にボランティアで岩手に行きました。
その時のメモをもとに簡単な記録を残しておくことにしました。
(当時も感想などを書いてるが、具体的な作業記録はしていなかった)
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~以下、当時のメモより~

●2011年4月10日(日)16:00ごろ 高槻市内を出発。友人Jと彼の車で出る。

●4月11日(月)初日。曇り一時小雨。冷え込む。
 5:00a.m.岩手県遠野市の体育館着。ここが宿泊地。受付開始8:00まで車中で待つ。
 午前:車で岩手県建築士会釜石支部へ。遠野まごごろネットを交えて相互の活動について情報交換。
 午後:岩手県大槌町ボランティアセンター会合(まごごろネットによる行政との調整、床下消毒の方法打合せ)
   日没、遠野市の体育館に戻る。Jさんの知人東京勢1陣到着。体育館(暖房なし)には寝袋で29人宿泊。
   大阪の真冬のように凍える。建物のまわりにはかき上げられた雪が積もっている。熟睡すると凍え死にすると思った。
   (避難所で暮らすみなさんのことを思う・・・)
 所感:神戸の時とは壊れ方が違う。被害は地震力より津波によるものが大と感じる。
     ものすごい力で一方方向へ押されている。異様な壊れ方。
     モノが流されており、その場で倒壊したのとは異なる。

●4月12日(火)2日目。晴れ。日中は少し暖か。夕方から冷え込む。
 9:10a.m.釜石市災害復興本部(釜石駅複合施設シープラザ内)。応急危険度判定に準ずる(被災住宅相談)作業に参加。
 午前:釜石市中心市街地 3件(木造住宅2、S造住宅1)、釜石支部の親分とJさんと3名で作業。
 午後:同上 3件(S造1、RC造2)、Jさんと2名で作業。18:00本部にて報告。19:00車で遠野へ戻る。
   Jさんも私も風邪気味。シャワー(風呂)がないので着替え、ひげそり。頭は坊主にして大阪を出ているので洗面で丸洗い。
 所感:相談依頼100件に対して私たちを入れて4チームで対応。人手不足。応援要請はしているが応答なしとのこと。
   津波は必ず2階の床から800~900mmの高さまで達している。1階は内外装及び建具が破損、2階は泥だらけ。
   隣家が倒れかかっているケースもあり。
   がれき、仕上等で躯体が見えないため詳細調査が必要となる場合が多い。家の人にははっきりしたことが言えず申し訳ない。

   
●4月13日(水)3日目。
 4:40a.m.大きめの余震。音がすごかった。揺れは感じず。遠野は岩盤の上にあり、そういうものだとの地元の人の話。
 6:00東京勢2陣着。Jさんの車で釜石へ。危険度判定に準ずる作業の続き。
 午前:釜石市沿岸部及び山の手 3件(沿岸鉄工所S造2、木造2階建住宅1、木造住宅隣家擁壁崩落)、釜石支部Sさん、Jと私の3名。
 午後:市街地 4件(木造平屋住宅1、木造2階建住宅1、S造商業ビル1、業務ビル1)同じ3名。
 所感:山の手。津波は来なかったが地盤がゆるく、ひな壇状造成宅盤が沈下していたり、土留め擁壁や基礎に被害あり。
   伝統木造の家もあった。赤ちゃんを抱えた若いご夫婦が買ったばかり。冷静でいる努力。
   異常な強風が常に吹く。わりと多いらしい。津波後の土砂が巻き上がってマスクやゴーグルも効かず。
   釜石から遠野への帰路、いつも渋滞。あるところまで来ると嘘のように津波の痕がなくなる。紙一重。

●4月14日(木)4日目。寒さが少しゆるむ。
 未明にすごい余震。やはり音がすごいが揺れは感じない。J車で釜石へ。危険度判定に準ずる作業の続き。
 復興本部で、依頼先リストと住宅地図を渡され、携帯で複数件連絡を取って1日の予定を立てる。
 午前:釜石市市街地 1件(S造2階建住宅)
 午後:同 3件(1階RC造に2階木造増築1、木造2階建住宅1、木造2階建にS造2階建増築兼用住宅1)
   釜石支部の親分から、明日は大船渡などを見てまわってはとお話いただいたが、フルに活動させていただくことにした。
   夜、東京勢出立。キャンドル点灯して見送る。まごころネットとキャンドルの話。
   青森からボランティアで来ている人は、こちらに移住すると言う。確かに、よいところだと思う。なんとなくわかる気がした。
 所感:他の建築士のみなさんは、住民さんに専門用語で簡潔に説明なさる傾向がある。またご自分の所属などもあまり説明しない。
   住民さんと接する時は、私の場合は言葉が大阪弁でもあるし、自分が誰であるかちゃんと説明して、
   建物についての所見は、わかりやすくていねいに、具体的にどうするのがよいのかを説明するように心がけた。
   (脱・専門用語)

●4月15日(金)5日目。晴れ。寒い。
 8:30 J車で発。
 10:00~11:15釜石本部にてミーティング。岩手県内陸部の建築士12名応援に駆け付ける。
  ・今回は通常の応急危険度判定とは異なる。(全戸ではなく希望者のみ)
  ・罹災証明(全半壊)を本部に持参すれば、補修費52万円補助。
  ・津波被害(1階天井まで水没なら全壊、1階1m以上なら半壊)の場合、撤去費用は全額公費負担。
  被災した建築を補修するより建て替えた方が生活再建しやすいという考え方もできる。
  (撤去費用公費負担は期間限定であるため、判断材料ははやく提供したい)
 午後:危険度判定に準ずる作業。釜石市市街地。K氏、Jと私の3名。
   4件(木造2階建住宅1、S造3階建と木造2階建1、RC造の社協建築1、RC造一部S造の中学校全体1)
   応援が来たため、今日で作業を切り上げてひきあげることにした。
   16:15 所属の大阪府建築士会へ電話で報告。(局長N氏)
   学校のグランドで野球をする子どもたちを見かけてなぜかほっとした。
   桜が少し開花。モクレンがきれい。
 所感:
  ・神戸の時の経験から待っていても応援要請は届かないと判断し、自分で釜石支部の連絡先を調べて電話、
   ぜひ応援に来てくれというお話を確認の上、自発的に友人と現地に向かった。
   県内の建築士のみなさんが応援に来られなくても、ご自身や周囲に被災した方もいらっしゃるかもしれず、
   一切責める気はなかったけれど、「建築士会と事務所協会とどちらの名義で参加するか決まらず遅れた」と
   ある方がおっしゃって、思わず暴言を吐いてしまった。(反省しています)
   組織云々に縛られず、自分が必要だと思えば、そして、相手が求めていればなおさら、さっさと来ればいい。
  ・物資はじゅうぶんにある。救援物資もあれば、スーパーやコンビニも品物はあった。
   店の人もどんどん買いに来てほしいと言っていた。
   物はもういいから、人と金がいるのではないかと感じた。
  ・ボランティアの宿泊環境の向上をお願いしたい。
   (これは当時の所感です)

●4月16日(土)6日目。
 9:00遠野発。Jの車で。すっかり見慣れた遠野の景色をあとにする。
 →大船渡、陸前高田、気仙沼を通る。ほんの少しの盤高の差などで津波被害がまったく違う。
  一面、荒地、ホコリ、がれき。信号がないため警察(他県の)が交通整理。自衛隊の活動が目立つ。
  (宿泊していた体育館の隣にも駐屯していた)
  自衛隊はがれきから人をさがし出しているいると聞く。気が滅入って二人とも無口になる。
 →ある公的機関?の人から福島原発レベル7の情報と助言をいただき、北陸、日本海へと迂回する。
  (往路ではなぜか福島沿岸部が見えるエリアを通行できた。沿岸の空が工業地帯みたいに光っていた)
  福島も福島の人たちも決してわるくない。しかし、政治はこういう客観情報をちゃんと広報してほしい。
 →一関のサービスエリア。風がほこりっぽくなく、息苦しくもなく、鼻や目も痛くない。
  ずっとあちらでがんばっている人には申し訳ないけど、忘れてた心地よさ。
 →東北自動車道から山形自動車道へ。山形の寒河江、湯殿あたりは雪と針葉樹の景。
  うつくしい日本の景。心が洗われてゆったりする。
 →鶴岡(山形)から日本海沿岸を走る。何もなくて、海が水平線まで見えて、まるい。
  すこし厳しくて冷たい、波の荒い海に、純真なすがしさと美しさを感じた。
 →車は運転を交替しつつ走り続ける。(ほとんどJの運転)途中、西宮、芦屋、尼崎の消防車輌隊と並走。
  (各地の消防車輌や自衛隊の車輌とよく出会った)

●4月17日(日)7日目。
 未明、京滋バイパスへ。関西に入ると二人とも元気になる。
 2:00a.m.高槻に入る。スタンドで給油と洗車。すごいドロドロだった。

●4月22日(金)帰阪後。
 5日目に危険度判定に準ずる作業でおじゃましたお宅では、1階ががれきでふさがっており、
 ご年配のご夫婦が、がけ地から2階ベランダへ乗り移って、椅子に乗って手摺を乗り越えて、
 ご自宅への出入をなさっていた。
 判定作業の次の予定が入っており、その手当てができず帰阪したのは失敗だった。
 遠野まごころネット副代表(当時)に電話。
 「わかりました。すぐに対応しましょう」と言ってくださった。

少し長いですが、自分の記録もかねて書いておきます。
ほぼ、当時のメモ原文をもとにしています。
よって、今とは状況や認識が異なる場合、私の記憶違いもあり得ます。ご了承ください。

今は危険度判定士の連絡網も整えられていますが、
いざという時に、うまく機能するのかどうか。
もうこういう経験はしないことがいちばんです。
でも、備えはするべきなのでしょうね。

あまり見たくなかった写真やメモ。
久しぶりに取り出しました。
少し疲れたので、今回はここで筆をおきます。
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by ti-ao | 2016-03-09 23:36 | 地震のこと | Trackback | Comments(0)
2015年 01月 14日

20年。

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被災建築物応急危険度判定士の連絡訓練。
今日の午前中にありました。
まぁ、連絡の模擬演習みたいなものです。
今までは連絡網さえなかったので、少しづつは進展してるのかな。
実践でどれだけ役に立つかどうか。

過去、神戸の東灘と岩手の釜石で危険度判定の作業を経験しています。
今までは、待っていたって要請なんかないから、
自分で行先を決めて、自分で現地と連絡を取って、自分で行きました。
(岩手の場合は、友だちといっしょに行動。車に乗っけてもらいました)
今度はもしかしたら、演習通りに要請に応じて組織的に動くこともあるだろうか。
でも、もう経験せずに済めば、それがいちばんいい。
ああいう状況というか、人の顔は見たくないし、無力感も味わいたくない。
やはりいつまでも残ってしまうのは、人についてのことですね。
自分が人だからなのでしょう。

さっき写真の話を友だちとしていました。
神戸の時、写真は一枚も撮れなかった。
報道の映像そのままの状況が目の前にあって、
この上何を自分が写真に撮る必要があるのかと思いました。
神戸の人の顔見てるととてもそんな気にもなれなかったですしね。
そうそう、当時は今みたいにデジカメやケータイもなかった。
レンズ付きフィルムの時代でしたね。

20年経って、ようやく、東灘を歩いてみようかという気になりつつある。
やっと、そんな感じなのでした。

連絡訓練の夜。
ぐらっと揺れましたね。
ほんまに、天は、見ているのではないか、
わたしたち人間のさまを、と思うことがある。
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by ti-ao | 2015-01-14 23:02 | 地震のこと | Trackback | Comments(0)
2014年 03月 11日

あれから3年、そこで浮かんだ深い「?」

もうすぐ、あれからまる3年。
モノも人も集まらず、復興住宅さえ建てられない、という。
たしかに、災害危険区域の規制などで、
元々住んでいた場所で生活再建できないという事情もあると思う。

けど、
せめて復興住宅ぐらいは早く建ててほしい。
いつまで仮設住宅にいらっしゃる人たちの、
そこでの暮らしが続くのでしょう。
困っている人がいつまでも困っている。
なんとかならないのでしょうか。
職人さんがいないとか、建設資材がないとか、
なんか、解せない。おかしい。

比べてもあかんというのはわかるけど、
神戸の震災のあと、
震災復興以外の工事物資がなくなり、工事の手がいなくなったことを思い出した。
あの時は、みんなが神戸の復興の仕事に集まったのだと思う。
人が集まって動けば、それに伴い、必要な物資も流れるようになるはず。
東北はその逆?

何かが、おかしい。
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by ti-ao | 2014-03-11 01:35 | 地震のこと | Trackback | Comments(0)
2014年 03月 08日

岩手・釜石の今(お聞きした話)

地震から3年。
今、釜石や大槌のみなさんはどうしていらっしゃるだろうか。

向こうでお世話になった大先輩建築士さんに、
昨日、お電話してお聞きした話です。

「型枠(仮枠)大工と鉄筋工がいない」
つまり、鉄筋コンクリート造の工事ができないことを意味する。
その結果、あちらでは鉄骨造の採用が増えている。
なるほど、釜石なら鋼材は豊富そうなイメージがある。
防潮堤工事に職人さんが取られているのか、
はたまた、東京あたりの工事に取られているのか、
定かではないようです。
報道でも、東北での公共工事の入札に参加する施工業者がいない、
という記事を見かけます。

ちなみに、鉄骨と鉄筋の違いは、
H型やL型、C型、ロ型等の鋼材が鉄骨で、これらを直接、柱や梁にするのが鉄骨造。
丸い鉄の棒(節がないものとあるものがある)が鉄筋で、これを組み合わせて編み、
コンクリートの中に埋め込んだものを柱や梁、床、壁にするのが鉄筋コンクリート造。
メジャーな報道番組などでもよく混同している。

それと、「今は内装工事の手(施工者)もいない」ようです。
材としては断熱材も手に入らないとか。

人手や材料がない、というのでは、さらに再建が遅れる懸念が強まります。
この先、東京五輪のために、さらに、人も物も首都圏に行ってしまうのでは?
なんか心配になってきました。
人と物を東北の復興に振り向けるには、どうすべきでしょうか。

津波が及んだ範囲などで、災害危険区域に含まれてしまうと、
家を建てることができなくなったりします。
だから、ご自分の土地に帰って家を建て直すことができない。
大変なことだと思います。
ただし、地域によっては条件が緩和されて、住める場合もあるようで、
私が危険度判定作業を担当したお家も1軒、再生されたと教えてくださいました。
たくさんの中のほんの1軒でも、再生できて、少しほっとしました。
あの時、お会いしたみなさん、今はどうしていらっしゃるのか。
気になっているご家族もいらっしゃいます。
お元気でいてくださることを願っています。

こちらでの状況が落ち着いたら、あちらに行って、
何かお手伝いできることがないか、自分で確かめたいと思っています。
やはり、少し時間のかかる話になりそうです。
予想していたよりも、さらに長い話になりそうです。
復興のために一人一人ができることは、これから先もまだまだ出てきます。
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by ti-ao | 2014-03-08 23:35 | 地震のこと | Trackback | Comments(0)
2014年 03月 07日

建築物の応急危険度判定の話など

昨日、応急危険度判定士のお話をしたので、
少しそれに絡んだお話を。

地震や津波などの災害で建物が被害を受けた場合、
特に、今回は住宅を想定してお話します。

被害を受けた場合(かつ、家の人が申し込んだ場合)、
私たちのような応急危険度判定士が判定に伺います。
しかし、この判定は純粋に建物の危険性のチェックをするので、
役所の罹災証明の調査とはまったく別です。
過去の活動でも、よく家の人から質問されました。
役所の罹災証明の調査は、役所のスタッフが行います。
さらに、保険会社の査定調査も当然、まったく別です。

これらの調査は各々、目的が異なるため、
見るべき点も立場も異なります。
しかし、災害で被害に遭われた家の人のお立場から考えると、
これらをなんとか集約したほうがよいのではないかと思ってしまいます。
少なくとも、役所の罹災証明と応急危険度判定はリンクできると思う。
いや、むしろしたほうがよいと思えますが、いかがでしょうか。
被災して、家にも住めないような状況の方のために、
一刻も早く判断をお示しして、必要な生活再建になるべく早く着手できるようにする。
似たようなややこしい調査が何通りも押しかけて来て、時間がかかったのでは、
たまったものではないという気がします。
それでなくてもおつらい状況です。
対応は迅速に迅速にというのが基本だと思います。
時間がかかれば、それだけ手当も遅れて、ご負担がきつくなる。
このことを肝に銘じていなければならない。

応急危険度判定。
実際に家を見に行っても、肝心の構造部材の状況が目視できないことが多い。
一体、自分は何のお役に立っているのだろうかと、無力感を覚えます。
一見、大丈夫そうな建築でも、実は構造に重大な損傷が見つかり、
一切立ち入ってはならない重篤な事例を見つけ出し、
誰かを危険から遠ざけることはできるかもしれない。
この判定作業は、そういうフルイにかける作業なのか。
実際に関わった実感です。

過去の判定作業では、1日に5~6件見て回りました。
家の人は心配そうに私たちの作業を見守っていらっしゃいます。
作業後、判定結果をお伝えする時、胸から胃にかけて、
何か黒い重い塊に圧迫される感覚を覚えます。
「このあと、どうすればよいですか?」
という家の人の問いには、できるだけ具体的にお答えしますが、
状況的に、それらがスムースに進まないことが想像され、
本当にお互いがつらい話し合いになります。

特に、先の岩手での判定作業については、
家の解体について公的補助が受けられる期間が限定されていたため、
その判断を急ぐ必要もあり、家の人にとってはとても重要だった。

応急危険度判定は、実はまだ歴史が浅い。
今お話した中にもあるように、まだまだ改善していく余地があります。

ちなみに、建築士には、実務能力向上に向けた学習システムがあります。
岩手から帰って何か月か経った頃、判定作業に従事した建築士は、
このシステムの単位を付与されると聞きました。
実際に判定させていただいたお家のみなさんのお顔が浮かんできて、
とてもじゃないけど、そんなもの受ける気にはなれなかった。
私たち建築士、判定士は、あの家のみなさんのために何ができるのか、
そのことを問い続けていなければならないと思う。

神戸の地震の時、先輩建築士がある家の判定結果をお伝えした途端、
それまで気丈に明るく振舞っていた家の人がお泣きになった。
それでも私たちの身を案じてくださった。
あの笑顔の危うさを知ったことが、いざという時の行動の根底にあります。

今日、岩手でお世話になったあちらの建築士会の大先輩に久しぶりにお電話しました。
お元気そうだった。
そのお話はまた別の機会に。
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by ti-ao | 2014-03-07 15:50 | 地震のこと | Trackback | Comments(0)
2014年 03月 07日

応急危険度判定士の連絡網の話など

もうすぐ3月11日。

先月、大阪府建築士会の応急危険度判定士緊急連絡網の試用?がありました。
東北の地震から3年、ようやく建築士も組織的に対応しようとしつつあるのかな。

連絡網をテストしてみて思ったこと。
1.すぐに判定活動に参加できないが、後日参加できるようになった場合の
 連絡先について決めておいたほうがよい。
2.判定士各人がどの地域にいる人なのか、リストでわかるようにしておく方がよい。
3.実際に活動する際には、過去に判定作業の経験のある人とない人がコンビを組む
 などの配慮をすると思われる。(その余裕があれば)
 そういうこともお互いにある程度わかっているほうがよい。
4.判定士同士の顔合わせの機会があるとよい。

過去、神戸と東北の地震で判定作業に従事した経験から、
いかに実戦的になれるか考えて以上のように建築士会に提言しました。

どこまで実戦で機能するか。
それに尽きます。

要請がなくても自発的に行動してきた建築士にとっては、
むしろ足かせをはめられたような気がしないでもない。
しかし、要請があれば動くという人も多いはずだし、
一度、従事すれば生真面目に役割を果たそうとする、
そういう日本人気質を考えて、広い目で見れば、
きっと、よいことなのでしょうね。


3年前。
友人と二人で岩手に行って、危険度判定作業を数日やって、
明日は大阪に帰ろうかと言う時に、
地元岩手の内陸部の建築士の皆さんが駆けつけて来た。
内陸部は被害が比較的少なかったとはいえ、
やはり皆さんも被害を受けているかもしれず、
あるいは、お身内やお知り合いに被害を受けた人がいるかもしれず、
自分たちよりもご参加が遅かったことを責める気など、
当然、まったくなかったのですが、
ある方が、複数ある建築士組織のいずれの名目で召集するか、
それが決まらず、来るのが遅れたとおっしゃった。
「カスやな」と、つい反射的に言ってしまった。
「そんなことどうでもええから、はよ来い」。
釜石市と大槌町の(その時点で)100件以上の判定を、
地元のほんの数人の建築士が必死で走り回ってやっていた。
現地に行く前に、電話番号を調べて釜石の建築士会に連絡した時にも、
「とにかく大変だから、ぜひ来てほしい。まだ応援が来ない」とおっしゃっていた。
それなのに。

少なくとも、組織的な動きが事前にイメージできていれば、
そんな出来事もなくなるかもしれません。
そうあってほしいです。
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by ti-ao | 2014-03-07 00:20 | 地震のこと | Trackback | Comments(0)
2014年 01月 16日

今夜は1月17日の明け方につながる夜。
あほなことゆうてる場合とちゃうかった。




もう仕事はやめて、しづかにしていよう。
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by ti-ao | 2014-01-16 22:41 | 地震のこと | Trackback | Comments(0)
2013年 08月 28日

カンポウシャゲキ~岩手県釜石市~夏の言い忘れ

艦砲射撃を知っていますか?
今夜はその話をします。

2年前、私が見た釜石の海は青くてきれいだった。
4月の半ばは大阪の冬みたいに寒かったけど、
高台から見た海の記憶は、明るくてきらきら。
あの海にはもう、他国の軍艦も、津波も、いらない。


2011年4月。東北の地震と津波のちょうど1か月後。
友だちと二人で岩手県釜石市へ行き、
建築物の危険度判定に準ずる作業に参加しました。
この作業に関わるのは神戸の時以来。
友だちの車で行って帰るまで八日間ほど。
内陸部の遠野市にある体育館で寝袋に眠り、
朝、友だちの車で沿岸部の釜石市まで移動、
判定作業で5、6件回って、夕方、また遠野に戻る。
毎日この繰り返し。
初日は現地建築士と一緒に行動しましたが、
2日目からは住宅地図を渡され、自分で先方に連絡を取って活動。
私たちが担当したのは、住宅だけではなく、
学校や公共施設、オフィスビル、店舗兼用住宅、倉庫など、
用途も規模も、それに立地も様々、
構造についても、木造、鉄骨造、鉄筋コンクリート造と一通りありました。

その中で妙に気になったことがありました。
2階建て木造家屋で、1階を店舗利用しており、
店舗内でじゃまになったらしい柱を取り払ってしまい、
その上部の梁を鉄板で挟み込んで、
柱のスパンが飛んでしまったのを補おうとしている事例。
市街地の商業地において、何件か見かけました。

現地ではゆっくりお話もできなかったので、
帰阪後に釜石建築士会の親分にお電話した際に、
「お国にはよくある手法ですか?」とおたずねしました。
予想していた店舗改修のための荒業、というよりも、むしろ、
「艦砲射撃の後の補修かもしれない」とのお答え。
「艦砲射撃?!」
「はい」
「あの、軍艦が陸地に向かって砲弾撃ち込む、あれですか?」
「そうです。釜石は2度やられています。
 鉄工所がありましたから、狙われたのでしょう」

ええええええええっ!

ということは、
わが国の本土のすぐ目の前まで、のこのこと戦艦や巡洋艦が押し寄せて、
その砲をもって、直接、国土を撃ってきた、ということです。
幕末動乱期ならまだしも、昭和の太平洋戦争で、
そんなことがあったとは知りませんでした。

空襲はひどかった、国中のあちこちがやられたとは知っていた。
(実際にはどの程度知っていると言えるのだろう・・・)
空襲は、機動部隊の空母艦載機が少し離れたところから攻撃してくる、
もしくは、占領した島の陸上基地から長距離爆撃機を飛ばしてくる、
だからまだ国土からは多少の距離感があります。
でも、まさか、直接本土に艦砲射撃してきたとは。
戦艦の主砲の射程なんて知れてるでしょう。
何㎞?
そんな近くまで、戦艦が来る。
見えてたんちゃうか?港から。
通常、こちらの攻撃機をおそれて、そうそう近海までは寄せられない。
その迎撃の戦力さえ皆無だったということでしょう。
ほんとにびっくりした。
なにすんねん、米軍!

それを教えられてだいぶん経つ。
調べてみると、確かに釜石市サイトなどにも書かれています。
ここではいくつかのサイトや知人からの伝聞をそのまま記します。
裏付けは行っていませんのでご了承ください。

1回目は昭和20年7月14日。これが本州初の艦砲射撃だったようです。
本州初と言うことは、本州以外ではすでにあったのでしょうか。
沖縄あたり、あるいは他にも?
(調べてから書かないのか?!)
2回目は同年8月9日。長崎の原爆の日に、東北では艦砲射撃、
米軍もなかなか手が込んでいます。
本土を守る力もすでにほとんどなかったから、
やりたい放題やられてる感じ。
これで二度の「核兵器=原爆」使用が本当に必要だったのか。
戦艦が直接本土に砲弾を撃ち込めるような
(すでにまともな戦力のない)相手に対して。

二度の艦砲射撃とも、時刻は昼の時間帯、ちょうど計ったように2時間、
いや、計っていたはずで、まさしく計画的な軍事行動、
2,500発とか2,700発とか大量、口径も様々。
でも、軍事行動と言いながら、なぜか市街地を焼け野原にしたらしい。
製鉄所だけ攻撃するのが軍事行動ではないのか。
ご丁寧に戦闘機の機銃掃射もあったと言う。

特に2回目は、山側から海側へ砲撃位置を移していき、
人々を海際の平地にあぶりだすようにして攻撃したとも。
機銃掃射は、ここ、高槻でもあったと、聞いたことがあります。
まるで暇つぶしのように、一般の市民を空から追い回して銃撃する。
ほんまに。なにすんねん。

かくして、日本は戦争に負けて、占領されたわけですが、
米軍はやはり占領軍であって、
今もその感覚が、かの国や軍隊には確固として残っているのではないか。
そんな相手の軍事行動(訓練含む)に、
ルールを守ってくれとか、まともな理屈が通じるわけがない、
(日本政府も当然わかっている、)
という気がします。
ある意味、占領はまだ続いている。
それが露骨ではないところが巧妙で、難しい。
基地周辺の人々の苦痛は問題だと思います。
本当の意味での占領の終結は、いつのことになるのでしょうか。

ちょうど今、零戦を設計した人の映画をやっていたり、
それでなくても、元々敗戦の8月は戦争の話が多い。
それと、釜石シープラザという、駅に併設された複合商業施設に、
東京の人気店舗が出店した、地元中学生の活動に応じて、
という報道にも接しました。
それで今ごろ、この8月中にお話しする気になりました。

そのシープラザという施設はまさしく、
危険度判定の日々、朝夕の打合せと報告に立ち寄っていたところ。
当時は復興の拠点施設になっていました。
エントランスを入ると、おびただしい安否確認情報の紙が貼り出されていました。
1枚1枚が重い意味を持っている、その間を通り抜けて、
毎日、建築士会のブースへ通ったものでした。
(ヘルメットとか腕章とかへの、人の目がなんか痛い気がした)
切実な相談や情報入手のために訪れた人々で一杯だった。
もちろん、店舗はやってなかった。
(電車も動いてなかったし、地階は支援物資倉庫だった)
もう、そこにそういう光景はなくなったようです。
渋谷の109出店でにぎわったり。
でも、それで震災が終わったわけではない。
自分のまちで新たな生活に入れない人が、
いったい、どれだけ多くいてはるのか。
よく東北の人は「もう忘れられたのだろうか?」と、
そうおっしゃると聞きます。

私たち関西人は(少なくとも私の知る限りは)、
神戸の時、中央のメディアが、
例えば、三宮駅前が一見きれいになったのを映して、
もうすっかり震災は終わったかのようなことを言うのを聞いて、
あるいは、1月17日前後以外は、すっかり忘れてしまったかのような態度であることに、
とても違和感を感じていました。
だから、多分、そうそう簡単には忘れないと思います。
なかなか日常的に関わることはできていないのですが、
日々の仕事や生活の中で、常に意識はしています。

建築士の世界?でも多少は反省があったのか、
昨年から、ある程度の強い地震があった場合、
建築士は所定の場所に召集されることになりました。
私自身も地域のサブリーダーのお役目をお受けしました。
これまでのように、自分の判断で現地に連絡を取り、
現地入りしてお手伝いする自由が無くなるわけですが、
災害時、組織的にうまく対応できれば、そのほうがよいのでしょう。
でも、神戸や東北のような経験は、もうしたくない。
(この地震国で、それは望むべきではないのでしょう)

書いてみると長くなってしまった。
失礼しました。
d0129713_038990.jpg

写真は、2011年4月13日の釜石市、あまり本文には関係ありません・・・
あのきれいな海の写真を撮っておけばよかった。
(当時、なぜかそういう気になれなかった)
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by ti-ao | 2013-08-28 00:38 | 地震のこと | Trackback | Comments(0)
2013年 04月 14日

地震つながり

ちょうど2年前の今、岩手に居たんだなぁ。
(建築の危険度判定作業ボランティア)
みなさん、どうしているかなぁ。
今年は久しぶりに岩手に行きたいなぁ。
などと思っていたら、
夜、いっしょに岩手に行ったJKさんから電話。
今、彼の店に、岩手で一緒だったジャニーさんが来ている。

2年前の岩手、遠野の体育館は寒かった。
まさかこうして高槻で、いっしょに、
ごはん食べたりお酒飲んだりしてるなんて、
あの時は想像もできなかった。
寒い厳しい状況を前に、
無力、
ということを神戸に続いてあらためて感じた、
そういう岩手での日々。
その中で、出会った人たちが唯一の救いだった。

その明け方、地震。
神戸の時と時刻的に近いことが、いやな感じ。
そんなことしなくても、神戸も東北も、
私たちは忘れたりしないのに。
天はどうにも念の入った性格らしい。

朝、岩手でお世話になったご当地の建築士のみなさんから、
お電話やらメールやらをいただいた。
ありがとうございます。
おかげさまで無事です!
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by ti-ao | 2013-04-14 11:43 | 地震のこと | Trackback | Comments(0)