マチヤ・テラス通信~高槻の町家を照らす~

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2015年 04月 14日

高槻城下町、夢の絵図

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城下町のイメージで描いてみました。

高槻城。
今は天守も堀もありませんが、城郭と城下町の惣構え、
その名残はまちの骨格として、そのまま残っています。
高槻城はまだ生きているのです。

江戸時代の高槻城は平城で、天守は三層、とても簡素な意匠だったようです。
本丸、二ノ丸、三の丸、それに出丸、内堀、外堀を含めて城郭は凸型。
そのまわりを武家屋敷、町家など城下町で囲み、
東西約700~800m、南北1,000m程度の規模。
城下町には六つの門があり、西国街道や淀川、富田など、
外界とを結ぶ出入口となっていました。
江戸時代の高槻城は、今の大阪府の範囲では3つ
(大坂、岸和田、高槻)しかなかった城のひとつであり、
その城下町は今でいう官庁街のようなものだったでしょうか。
このため、明治維新後、武家集団がまちを去った後、
一時非常にさびれたという話を聞いたことがあります。
また、訴訟などで城を訪れた人を泊める郷宿もあって、
登録有形文化財になっている横山家住宅は唯一の生きた遺構です。
丸の内だった土地は現在、主に公共施設用地となっており、
堀を埋め立てた土地は主に住宅地となっています。
丸の内や城下町の武家屋敷や町家も一部残っていて、
これらはまちのたからものです。

今回はとてもシンプルだったという江戸時代の城をイメージしました。
現存する高槻町家もとてもシンプルであり、
城と城下町の町家の意匠は、なんらかの共通性を持つのではないかと、
わくわくと想像しています。
つまり、城も高槻町家と同じく、シンプルだけどシャープできれいだった。
そう思えてならない。

個人的には、戦国期、高山右近公の時代の城に関心があります。
今回、ちょっとだけ、そのイメージも実は盛り込みました。

いつか大雑把に言って三代目の天守が再建されるなら、
その時の「今」の天守をつくればいいと思っています。
いつも言っていますが、新しい城も五〇年もすれば、立派になじみます。
城下町を堂々と名乗れるまち高槻として、高槻城は大事です。
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by ti-ao | 2015-04-14 23:47 | 風景カフェ | Trackback | Comments(0)
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